2013年8月9日金曜日

伯母の原爆体験記


昭和二十年八月六日午前八時十五分、私は国民小学校の国語の教科書を大きな声で読んでいました。

 突然、ピカーと今までに見たこともない強烈な光線と共に、ドカーンと地響きのような揺れで、私は一メートル位飛ばされたように思いました。身体の上に、何か壁土のようなものが落ちてきて、一瞬、周りが真っ暗になりました。その時、私は、「天皇陛下万歳」と叫びました。当時、私たちは、死ぬ前には必ずそう言うように教育されていました。あの瞬間、私は、それを言ったのを、今でも、はっきりと覚えています。自分は、“死ぬ”と思ったのでしょう。本能としたら、まず、「お父さん、お母さん」と呼ぶでしょうに、小さい時に、頭に植え付けられたことが、いかに強い影響を持つかということを、後になって考えさせられました。

 まず、父が、私のところに来て「大丈夫か?怪我はないか?」と抱きかかえながら、「家に爆弾が落ちたのだ。今に、助けが来るから、じっと動かないで、待っていよう。」

と言った時、母が、私の名前を呼びながら、かけてきました。母の額からは、血がぽとぽとと流れていました。父は、すぐに、自分の着ていた浴衣を切り裂いて、母の額に巻きました。しばらく、三人で抱き合っていましたが、父が、私達に、「動かないように」と言って、外の様子を見に行きました。帰って来て「大変なことだ、全滅だ!全滅!誰も助けに来ないから、逃げよう。」と言った時、母は、先程迄、母のいたお茶の間に、荷物をとりに行きました。でも爆風で、どこかに飛んでしまって、見つからなかったそうです。

 いつも「空襲警報」が発令されて、防空壕に、避難するときに、持って行った大切なものだそうです。その日も、朝早く、サイレンが鳴り、解除になって、どれ位の時間がたっていたでしょうか。父はほとんど被害を受けていない離れ座敷の方から、庭をつたって、倒れた外壁の上に私達を引っ張りあげて、外に出ました。

 その時、右隣に、住んでいた叔母が「お義兄さん、お義兄さん、助けてください。」と私達を見るや否や、叫びました。家は、ぺちゃんこにつぶれて、叔父(末弟)が建物の下敷きになっていました。父は、すぐに、そちらに行き、叔母と一緒に、一つづつ、瓦礫をかきのけて、叔父に声をかけながら、掘り出し始めました。

 母は、外に出た瞬間、警報が解除になってすぐ、寺子屋学校に出かけていった長女のことが心配になり、さかんに、姉の名前を呼んでいました。その時、近くに住む、別の叔母と小さな従弟が、倒れかけた家の中から這い出してきて、祖母が生き埋めになっているので、助けてくださいと悲壮な声で言いました。その家には、祖父と母の長弟の家族が住んでいましたが、祖父と叔父は外出中でした。母と叔母は、このあたり、と叔母の言ったところを掘り始めました。私と従弟はただ恐くて、震えていました。

 その時、姉が私達を見つけて走り寄って来ました。「お母さんは?」私が指した方に行こうとした時、姉の背中の洋服が燃えているのに気づき「お姉ちゃん、火が、火が、背中が燃えている。」と、私は思わず叫びました。姉は、、無我夢中で自分の背中が燃えていることに気がつかなかったと、後程、言って居りました。私の叫び声に気がついた母が、駆け寄って来て、姉に抱きつき、背中に気がつきました、母がどんなにして、火を消したのか、私は、覚えていません。

 父は叔父を先に助け出せば、一緒に祖母を助けることができると思っていたようです。しばらくして、叔父の上半身は見えましたが、脚のところに、大きな床柱が乗っていて、やっとの思いで助け出したとき、叔父の足は折れていて、一人で歩くことはできませんでした。

 父は姉のことを気づかいながらも、祖母を掘り出すことに懸命でした。

 その頃には、方々で、火の手が上がり、助けを求めて、叫ぶ声、泣き声、うめき声、皆、山のほうへ向かって逃げていました。

 やっと祖母を掘り出しましたが、祖母は意識がありませんでした。父が祖母を、背中におんぶして、二人の叔母が叔父を抱え、母は、姉と従弟と私を連れて、山の方を目指し、歩き始めました。その時には、既に、後方、両脇から火は迫ってきて、歩いていても 火の粉が飛んできて手でよけながら逃げていきました。

一つ目の橋を渡るとき、川の周りに、たくさんの人達が、水を求めて、群がっていました。途中、もの凄い雨が降りましたが、雨をよけるところもなくしばらく、立ち止まっていました。それが後にわかった「黒い雨」「放射能雨」でした。

 どれだけ、歩いたか、無我夢中でついて行きました。親戚の「夏の家」が山のふもとにあり、両親は、そこにたどり着けば、助かるだろうと考えたようです。

 やっとのことで、たどり着きましたが、そこには、もう既に、市内から、逃れて来た人達が、庭まで、一杯でした。

 親戚の人達は、私達を見つけ、無事を喜んで、家の中に入れて下さいましたが、その家の中も、既に満員でした。庭には、二~三十人位の人がいて、特に中学校や、女学校の制服が焼けて、顔の皮膚がめくれ、痛さにうめき声を上げていました。小さな声で「お母さん、お母さん」と呼びながら、水を欲していました。父や元気な人達が、順番に、水をあげていました。私は、地獄とはあのようなところなのだろうと、後に思うようになりました。中学生の人達は、当時、学校から、建物の解体作業に、従事させられていたのだと後に聞きました。

 たった数分前まで、苦しそうにうめいていた人達が、急に静かになり、次から次へと、息を引き取ってゆきました。私は、初めて、目の前で、多くの人達が、死んでいくのを見ました。

 祖母は身体を擦ってもらい、温めてもらって、幸いにも意識を取り戻しました。私達は、その時、ほとんど、裸同然でしたので、そこで、衣服をいただき、又、次の目的地を目指して、歩き始めました。

 その頃から姉の背中の痛みは、だんだんと酷くなりましたが、母は、一生懸命、勇気づけながら、支えていました。日が暮れないうちに、たどり着かなければと言われ、見たサンセットの美しかったこと、不思議に今も覚えています。私達は、西に向かって歩いていたようです。後になって、原子爆弾は、太陽の光線と密接な関係があると聞きました。あの日、広島の空が曇っていたら 雨が降っていたら、どうだったのでしょうか?

 途中、大変のどが渇き、従弟と、小さな小川に、水を飲みに行きました。そこで、又、小川の両側に、たくさんの人達が、水を求めて来ていました。顔を突っ込んだまま、倒れている人、又、水の中に浮かんでいる人もいました。恐くて、恐くて、水も飲めず、逃げていきました。

 真夜中に近かったと思います。私達は一緒に逃げた叔母の生家にたどり着きました。水と食べ物をいただき、縁側から広島の市内の方向を見ました。空は真っ赤で、まるで、火の海のようでした。私は、まもなく、眠ってしまいました。永い永い一日でした。姉の痛みは激しく、父母と三人、一睡もしなかったようです。この時から姉は、肉体的にも精神的にも、壮絶な苦しみに、一生耐えなければならなかったのです。翌日、大きな家だったので、私達にも、とどまるように言われたそうですが、他の人達を残して、父は木製の「大八車」を借り、姉と私を乗せて、父が引っ張って、母と四人、次の目的地に向かいました。

 途中、又、空襲警報のサイレンが鳴り、姉を抱えて、近くの防空壕に何度も入りました。

 父は、少し前、広島市内から十キロくらい離れた田舎に、お部屋を借りていました。何でも、「八月八日に、広島は空爆されるらしい 」という、うわさが流れていたそうです。後にわかったことですが、米軍が、一般市民に、非難するよう、ビラをまいた、ということでした。でも、日本の軍部はそれを知らせなかったのです。

 父はその田舎の部屋に、私達を連れて行くつもりで、早くに少し、荷物を運んでもらうための車を頼んでいたそうです。なかなか車の都合がつかず、八月七日の予定になっていたのだそうです。後で、父は、荷物など運ばなくても、もっと速く、行けばよかったと後悔していました。

 夕刻、到着。家主さんは大変親切に迎えてくださり、その後、八ヶ月、そちらでお世話になりました。

 その日から、姉の苦しみは、始まりました。少しばかりの幸といえば、後ろから、光線を受けたのと、さしていた日傘のお陰で、頭の部分を免れ、背中と腕、脚の部分、身体の三分の一の火傷でした。しばらくは何の治療も受けることが出来ず、母が布地を切って、薬草のようなものをつけていました。真夏の暑さの中、その傷口に、うじ虫がわいたそうです。

 姉は県立女学校の生徒として、呉にある軍事工場で兵器の一部を作る学徒動員して働いていました。父は、呉市には、日本海軍の大きな軍港があるので、大変危険地域だと考え、何とか、早く、家に連れ戻したいと思っていたようです。

 一九四五年三月、卒業と同時に、小学校の代用教員として広島に連れ戻しました。当時は卒業しても、そのまま、工場に、残ることになっていたそうです。それを免れるためには、結婚するか、学校の先生になることだったそうです。

 姉は、その時十八歳でしたが両方の親同士で決めた人と結婚することになっていたようです。相手の方は、お医者さんで、その半年前まで 家が遠かったこともあり、姉たちの居ない私たちの家から、病院に通っていらっしゃいました。

姉の卒業と同じころ、その方は、招集されて、兵役につかれ、原爆投下後、軍医として投下の中心地近くで、休む間もなく治療に当たり、急性白血病で、その数ヶ月後、亡くなられました。

 その代わりと言えましょうか、私達が田舎の家に移って、しばらくしてある軍医さんが勤務を終えられた後、毎日きて 姉の治療をはじめて下さいました。その方のお陰で姉は、生き延びることができたのだと、いつも両親は、感謝していました。

 わたしには、もう一人の姉がいます。その姉も、女学校の学徒動員で、軍事工場で働いていました。大変心配していましたが、幸いにも、元気で、後日、父に連れられて帰ってきました。うれしくて、みんなで抱き合って声を上げて泣きました。

 八月十五日、お昼前、大家さんが、これから天皇陛下の大切なお言葉を聞けるので、ラジオを聞きに来るようにと言われ、私も、父について下の姉と大家さんのお座敷に行きました。たくさんの人が集まっていました。天皇陛下のお言葉は、私には難しすぎて、わかりませんでしたが、皆が、頭を畳にすりつけて、声を殺して、泣いていました。下の姉から、「戦争が終わったのよ。日本が負けたの」と聞かされました。

 でも、その頃から あのピカドン(爆弾)は、普通の爆弾ではなく、元気で逃れた人達も、その後奇妙な病気にかかって、死ぬらしい。広島の町には何十年も、草も生えないらしい、といううわさが、流れ始めました。

 主な症状は、急に、鼻や歯茎から出血して、髪の毛が大量に抜け、身体に、赤い斑点が出るということで、母は、毎日、朝夕、私の身体をチェックしていました。父方の叔母も、その急性白血病で亡くなられました。

 父は八月六日、朝、出かけていた祖父が帰ってこないので、ほとんど毎日、廃墟となった町の中を、祖父を探しに、駆け回っていました。

 次姉と二人で、部屋の窓から、眺めていると、毎日毎日、何回も、棺を担いだ人達が火葬場の方に向かっていきました。被爆した人達が、次から次へと、亡くなっていくのです。幼いながら、次は私の番ではないかと、思わず、髪の毛をひっぱったり、体の斑点を探していました。

 私達の被爆した場所は、爆心地といわれる原爆ドームから、わずか一。二キロ離れたところでした。歩いて、十五分です。以後、六十年間「白血病」への恐怖は私達に付きまとっています。

 父の会社は原爆ドームの通りひとつ隔てたところにあったそうです。当日、父は熱があり、仕事を休んで、家にいました。会社にいた人は、次から次へと白血病で全滅されたそうです。

 長姉は、三月、呉から広島に帰って、丁度、ドームの前の小学校に勤務していましたが、少し前、ほとんどの生徒が集団疎開して、学校が閉鎖になり、家の近くの寺子屋小学校に教えに行く途中で、被爆したのです。もし、父も姉もそこにいたら、おそらく亡くなっていたでしょう。

 わたしは、小学校の三年生でしたが、両親が私を集団疎開させなかったので、姉に、勉強を見てもらっていました。その日も、国語の教科書を読むように言われていたのです。私の友人達はほとんど、親元を離れ、田舎に集団疎開していましたので、助かりましたが、その中の三分の一位は片親、又は、両親をなくしていました。

 私達が、当日叔父と叔母を掘り出して、逃げて行く時、父は、叔母に、二人の幼い子供達のことを尋ねたそうです。叔母はその時、首を横に振って「駄目です」と言ったそうです。一歳に満たない従弟は、叔母からお乳を貰っていたところ、屋根の瓦のようなものが飛んできて頭に当たり、頭が砕けたそうです。どんなにつらかったことかと思います。叔母は気丈にも身体にタオルをかぶせ、手を合わせたと言っていました。その後は下敷きになった叔父を、一生懸命に助けていました。もう一人の従妹、四歳、可愛らしく、いつも、私は妹のように思って遊んでいました。叔母はその時、一生懸命女の子の名前を呼んで、探したそうですが、返事はなく、丁度、自分の目前で死んでいった男の子のことを思って、女の子もそのような状態だったと観念したようでした。

 ところが、後になって、ある人が、家が燃え盛っている時、そこを逃げるために通っていて、幼女の助けを求める声「おかあちゃん、あついよ、たすけて。」という声を聞いたと言われたそうです。もしかしたら、一時的に、祖母のように、意識を失った従妹が、気がついて助けを求めながら、生きたまま、火に燃えてしまったのでは・・・・・・考えただけでも恐ろしく、叔父や叔母にはその話は出来なかったそうです。

 父や叔父達が探し続けた祖父は、とうとう見つかりませんでした。どこで、なくなったのか、未だに、お骨もありません。

 十八歳で、大きなハンディキャップを背負った姉も、どんなに心身ともに辛かったでしょうか。幸いにもよき伴侶に恵まれ、幸せな家庭を持つことが出来ましたが、数年前から、病名のわからない病で、入退院を繰り返し、被爆後六十周年を迎える二ヶ月前の六月六日、腹部に出来た、大きな肉腫のため、亡くなりました。これが、原爆に関係があったかどうか、わかりませんが。

 姉の亡くなった二ヵ月後、六十周年の記念番組で、アメリカの資料館を取材していました。一般の人に見せる部屋、鍵の掛かった部屋、これは特別に希望があった場合、見せる部屋、あまりにも悲惨すぎるからのようでした。その中に、姉の写真がありました。父が、ある時、ケロイドの治療を、アメリカの医師団がしてくれるのでと、姉を密かに、連れて行ったそうです。実際には治療はしませんでしたが、そのとき、写した写真のようでした。後ろから写してあるので、顔などわかりませんが、私には、そのケロイドの傷は、はっきりとわかりました。一瞬なんともいえない、怒りと悲しみが、こみ上げてきて、急いで、テレビのスイッチを切りました。その後、その写真は現在、原爆資料館に 

「ケロイドの少女」として展示されています。せめてそのことを。亡くなった姉と両親が 知らなかったことは、幸いとおもいます。

 翌年、一九四六年四月、大変お世話になった田舎の家から、焼け跡に、建てた家に帰りました。八月六日に逃げて行く時には、私の家は多少崩れていましたが、形は残っていました。まったく跡形もなく焼け果てて、石で出来た庭の灯篭だけが池に落ちて残っていました。なぜか、いつも、えさをあげていた、池の鯉達の事を思い出しました。

 敷地の片隅に、バラック小屋の木造、住まいは二部屋に茶の間とお風呂があるだけでしたが 、とてもとてもうれしかったのを覚えています。

 間もなく、私は、近くの小学校に、行くことになりました。校舎もなく、運動場の地面に焼けた釘で自分のノートを四角に書き、計算や、文字を書いて勉強しました。時には、まわりから、人の骨が出てきて、先生に知らせました。もちろん、雨が降ったら学校はお休みでした。

 貧しいながらも、家族五人で平和な生活でした。

 私が中学生になった頃から、原爆の後遺症のことが問題になってきました。ABCCというAtomic Bomb Casualty Commissionという施設が後遺症の研究をはじめ、私も、年に二回、学校の授業中に呼び出され、半ば強制的に、ジープに乗せられて、いろいろと検査をされました。現在も尚、広島を離れている私に、書類での調査を送ってきます。六十年過ぎても、まだ影響の心配のある核の恐さ、現在は、もっともっと比べ物にならないほどの強力な核をいくつもの国が持ち、又、次から次へと開発されています。なんと恐ろしいことでしょうか。ノーモアヒロシマ。ノーモア ナガサキ と心から願わずにはいられません。